女だからってなめんなでちゅ

娘が生後半年頃の、よく晴れた秋の日だった。わたしはうちに来てくれた実母と一緒に娘を乗せたベビーカーを押して公園の中を散歩していた。その公園の中には小さな丘があり、丘をぐるりと回るように散歩用の道がある。わたしと母が喋りながらベビーカーを押してその道を歩いていたとき、急に三歳くらいの男の子が乗っていた三輪車を乗り捨ててわたしたちのもとへやってきた。「赤ちゃんだー」と言いに来たのかな、と思ったが、男の子はわたしたちの行く道のこれからベビーカーが通るところに石を置いたのだ。
「あらー、お兄ちゃん、こんにちはー」と母は笑った。わたしもあはは、と言った。男の子が置いた石をよけてベビーカーを押して歩いていくと、また後ろから男の子が走って追いかけてきて、私たちの前に回って通り道に石を置いた。「あらー、お兄ちゃん、かっこいい石持ってるねえー」と母は相変わらず笑って言った。わたしは笑えなかった。また石をよけて歩くとまた後ろから男の子が追いかけてきて前へ回り、三度目の石を置いた。
わたしは絶句した。女の子が受けるからかいを、娘が生後6か月で受けたことに。
そしてこの男の子がもう既に「社会」を知り、その「社会」の中での「正しいふるまい」を身につけていることに。
その日の夜、今日の出来事を夫に話した。「その男の子には周りにそうやって女性に意地悪したりからかって気をひこうとする、それが男としてかっこいい行為だというようにふるまう男性、父親や兄弟がいるのだろうね」とお互い話した。そして、「ベビーカーを押していたのが私とお母さんじゃなくて、私とあなたーーつまり男性が相手だったらーー今日のことはされなかったと思う」と言うと、確かにそうだね、と言われた。
深い濁った湖の底に沈んでいた記憶を思い出した。小学四年生の頃、父とふたりで市民プールに行った。その日は平日でしかも曇り空でやや寒く、今にも雨が降りそうな天気だった。屋外プールに人はほとんどいなかった。わたしはたまたま平日に父が家にいること、しかもそんな貴重な休みにわたしのプール遊びの付き添いに一緒に来てくれたことが嬉しくて、天気の悪さなどどうでもよかった。わたしが誰もいない流れるプールで思い切り泳いでいると、突然後ろから強い力で誰かに抱きつかれて沈んだ。体が骨張っていて硬い。男の子だ。わたしは気にせず顔を上げるとまた泳ぎだした。この市民プールは新しいから、夏休みや休日なんかはこの流れるプールは人が芋洗いのようにいっぱいで、知らない家族連れにぶつかってしまうことなんて何度もある。しかし今日は人がほとんどいないのになぜだろう?
不思議に思いながらまた泳いでいると、また後ろから強い力で抱きつかれ、わたしは沈んだ。誰か友達と間違えているんだな。また泳ぐ。また抱きつかれる。それは最初からでわたしは見ないふりをしていた。認めたくなかった。でも認めるしかなかった。胸を揉まれている。中学生くらいの、私より年上の男の子だった。痴漢をされている。認めたくなかった。認めたくなかったがために、私と男の子の一連の行為の流れは十回以上続いた。水中にいるのに体中からいやな汗がだらだら流れているようなぬるくて気持ち悪い感覚だった。「もう帰ろう。いっぱい泳いだ。楽しかったよ。」と父に言った。ほんとにもう遊ばなくていいのか、と聞かれたが、うん、もういいの。楽しかった!と言い家に帰った。痴漢に遭ったことは父にも、母にも、誰にも言えなかった。当時クラスの特に仲のいい友達とやっていた鍵付きの交換日記に書いた。だめだと思った。破ってそのページを捨て、家族でもののけ姫を見に行ったことを書いた。これでいいのだ。誰にも言う必要はない。そうすればなかったことになるのだ。そう、はじめからあんな出来事起こっていなかったのだ。
リビングでぼーっと立ちながらいま思い返せばあの出来事は完全に痴漢で犯罪だったな、と思った。今日娘がされたことは痴漢ではない。過激なことではない。ほほえましいからかいかもしれない。けれど、本質は変わらないのではないかと思う。痴漢されたわたしが母になり娘を生んで、娘も男の子から嫌がらせに遭う。まさかこんな日がくるとは思わなかった。悪しき連鎖。断ち切れない連鎖。それらはたしかに、いまだにこの世にたくさんあるのだ。その連鎖を断ち切るために、声を上げなければならない。負の連鎖を断ち切ること。フェミニズムが広く知れ渡り、多くの人々が声を上げ始めた今、それがわたしたちの世代の女性に課せられた責務ではないか。

小林エリカ/彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ! 筑摩書房
「これを見ているすべての少女たちへ。あなたは価値があり、パワフルであり、自分自身の夢を追い、達成するために世界中のありとあらゆるチャンスと機会を得ることができるのだということを、疑わないでください」
「私は、あなたの言葉で撃たれ、あなたの目で切られ、あなたの憎しみで殺されるかもしれません。それでも、私は空気のように立ち上がります」
ちいさな顔ににカーテンがの影が落ち、何も知らずすやすやと瞳を閉じて眠る娘の皺ひとつない肌を見つめた。
粋な夜電波シーズン2のプレイリストを聴いていたら聴きたくなりました。放送当時の高揚感が蘇る。ボクシングのようだ。マイルスのデュランに繋いだときの興奮は忘れられない。シーズン2がいちばん好きです。
アミリ・バラカで疲労した方はこれで鎮静してください。
残る配信もあと一回の予定です。配信・ZINE共々最後までどうぞよろしくお願いします。
すでに登録済みの方は こちら