育児ほど文学してるものはない、のかも
子供らが散らかした部屋を抜け出して何を探そうとしていたのだろう 東直子
出産後、救われた本のひとつが東直子「一緒に生きる 親子の風景」だ。
この本は歌人の東直子さんのエッセイで、子育てをしていた当時の出来事や思ったことを綴ったものなのだが、途中から詩歌の引用がはじまる。昔の文学者や歌人も子育てをしていた。それらはいま読んでも現代の母親が直面すること、感じることとなにも変わらない。以下は昭和五十五年刊行の河野裕子歌集『桜森』(青土社)の中の子育て中の心理を詠んだ歌である。
君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る 河野裕子
子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る 〃
子育て中の壮絶さと子どもに対する深い愛情がひしひしと伝わってくる歌だ。今でも髪を振り乱して怒ったり、常に抱っこを要求された後子を抱いて風呂に入り子を抱いて眠り、自分と子どもの境界線がないように感じたりするのは変わらない。
坂本裕二脚本の芦田愛菜主演ドラマ「Mother」にこんな台詞がある。
『母と子は、温かい水と、冷たい水が混じり合った川を泳いでいる。
抱きしめることと、傷つけることの境界線はなくて、子供を疎ましく思ったことのない母親なんていない。子供を引っ叩こうとしたことのない母親なんていない。
そんな母親を、川の外から罵る者たちがまたひとつ、母親たちを追い詰め、溺れさせるんだと思います。』
育児ほど、憎しみと愛情という二律背反する感情が同時に成立していることが、そうそう世の中にあるだろうか。こんなに文学的な状態になることが、そうそうあるだろうか。
「一緒に生きる 家族の風景」は巻末の東さんと作家山崎ナオコーラさんの対談も印象的だ。
『私は現在、幼児二人の育児中で、文学をしている時間が足りなくなっちゃったんじゃないかっていう焦りを日々感じてるんです。でも、育児をやってるだけでも文学なんだって自信を持てた気がします。育児して考え事するだけで十分なのかもしれないって気持ちになりました。』
『このエッセイの中には、育児をしている最中に、もう一つの目を持っていいんだっていう、そういうメッセージがあるように感じました』
育児の話は近視眼的になりがちだ。子どもの話、親同士の人間関係、貯蓄の話・・・。
しかし昔の文学者も育児をしていたんだと考えることで、子どもの未来、子どもの生活、自分の生活、かつて子どもであった自分ーーーー過去の文学者たちのうえに自分が重なっていて、何層もある育児の時間を一緒に過ごしているんだという気持ちになってくる。

東直子「一緒に生きる 家族の風景」(福音館書店)
手を繋ぎ寝るといへども寝返りてかくやすやすと子は身を離す 河野裕子
子どもが熱を出したりして久しぶりの配信になりました。
ヴァシュティ・バニヤンは冬のイメージ、そして母親の声のイメージです。包容力があり達観した母親。彼女自身に子どもがいるのかはわかりませんが。こんな音楽のように子どもに接したいです。
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